(聞き手)
発災後、どのような行動をとられたのでしょうか。
(澤田様)
いつまた揺れるかわからないので、まだ机の下に潜っていなさいと子どもに指示をしました。
校内
放送も止まってしまいましたが、用務員さんが3階まで走って来てくれて、次の行動の指示をしてくれました。
職員室が本部だったと思いますが、校長先生と教頭先生が判断して、その都度指示をくれたので、比較的状況は分かりました。
初めは、お迎えに来た保護者の方へ子どもたちを引き渡すことにしていましたが、
大津波警報が発令されてからは引き渡さないようにしました。その対応は間違っていなかったと思います。
そうしている間に3階の窓から外を見ると、砂押川から道路に水が入って来るのが見えました。
子どもたちもそれを見ていましたが、不安そうにしていました。恐ろしかったですね。
(聞き手)
その時点で、周囲の住民の方はどのような状況でしたか。
(澤田様)
学校にはどんどんと地域住民の方がやって来ました。桜木にある食品工場の方だと思いますが、そこの人たちも白衣のままで避難されて来ました。初めは校庭にいたのですが、雪も降ってきたので
校舎内に入りましょうということになりました。そして、
教室内は従業員の方や地域住民の避難場所となりました。100人くらいの人たちがいらっしゃったと思います。避難者の方のために
教室も体育館も開放していました。
(聞き手)
ここには最終的に何人くらいの人たちがいらっしゃったのでしょうか。
(三崎様)
最高で1,400名ほどです。天真
小学校は、市内の
学校で、一番多くの避難者が来られました。
(聞き手)
住民の方たちはパニックになっていませんでしたか。
(澤田様)
食品工場の方たちは従業員全員で避難されて来たので、集団という事もあり、ある程度落ち着いていました。
(聞き手)
三崎先生は、発災直後はどちらにいらっしゃいましたか。
(三崎様)
私は1年生の
教室にいました。ちょうど3時頃でしたので、本来なら子どもたちを帰宅させている時間帯です。
ですが、たまたまその日で転校するという子がいまして、その子の保護者も交えてお別れ会をしていました。
隣のクラスは全員下校していて、私のクラスは、地震が起きた時に全員残っていました。
1年生なので、女子児童は怖くてほぼ全員が泣いていました。
机の下に潜らせましたが、なかなか揺れが収まらず、「この
教室は絶対壊れないから、みんな大丈夫だから」と慰めるのに大変でした。
その時は津波が来るなど考えてもいませんでした。
それから、今までの経験では必ず避難指示のアナウンスが流れていたのですが、今回は聞こえませんでした。
ですから、その時、初めて
放送が使えなくなる場合があるのだとわかりました。
放送が使えない場合は、人が伝えに来るしかありません。
そして、本来なら地震があった時に外に避難すると思いますが、私の
学校では外に避難しませんでした。タイミングを逃したというのもありますが、いつまでも揺れが続いていたということも原因です。
普通は、揺れが収まったら外に避難するのですが、収まる気配がありませんでした。その間にも、どんどん住民が避難する為に集まり、人が増えて来ました。
それからは、子どもたちや避難されてきた皆さんも錯乱状態でした。教員まで錯乱すると収拾がつかなくなるので、子どもたちをなだめるのに精一杯でした。
1人が泣き出すと伝染して皆泣き出していましたが、他の先生も来て対応してくださいました。
教室は1階だったので3階とは異なり、津波が見えませんでした。その時、避難して来た人たちが一斉に校庭の端の方に移動していく光景が見えたので、何があったのだろうと思いました。ラジオなどで津波が今どのような状態で来ているのか把握できれば、先生方もその状況がわかったと思います。
しかし、一切わかりませんでしたので、地震が起こっただけで何故こんなにたくさんの人が来たのだろうと思っていました。
それに、地震だと家が崩れるイメージしかなかったので、なおさら不思議でした。
そして、
学校には人が押し寄せて来ました。寒いから入れてほしいと言われて、避難者の方たちを中に入れました。その後、子どもたちの家族が迎えに来てくれたので
引き渡しました。
大津波警報が発令されてからは、
引き渡しを中止しました。その時点で子どもたちは10人ほど残りました。